図書紹介ブログ低調でしたが、今年度は積極的に取り組んでいきます。
2020年05月20日
今回はだいぶ毛色の違う本ですが、村井幸三著「お坊さんが困る仏教の話」新潮新書です。
評者の関心のある部分を中心に、感想もまじえながら、内容を紹介します。
「死んだら次に行く世界はあるのか」と言うのが本書「はじめに」の冒頭の問いかけである。
われわれの世代(70代)から、そろそろ「死後、霊の世界あるかもしれないが、まあ死んだら何にもなくなる」と考える人が増えているのではないか。
この本の主題は、戒名や、お位牌、お葬式のこと、お寺さんのことについてであるが、たしかに、この「死んだらどうなるのか」ということが一番根本的な点であるように思われる。
村井さんは、医師の友人の、「二十一世紀は長生きの欲あって死生観なし」の言葉を紹介されている。死ぬ前には、病院のベッドで一時でも長く生きられるよう、色々な管につながれ、ゆっくりこの世にお別れする暇もなく、意識をなくしたままの状態で息を引き取ることが一般になっているのではないかと想像する。
死後の世界を考える以前の問題点として、終末医療が現状のままでいいのかを考えることも大事な気がする。
自分自身、何かいい出会いとか、タイミングが良かった時など、「南無大師遍照金剛」と唱えて、弘法大師に感謝したり、仏壇で手を合わせるとき、先立たれた父や母、姉や兄、先祖代々に「南無阿弥陀仏」と唱えるのは身についている一方で、おそらく自分には死後の世界はないと思っている。
イスラムの知り合いの人と何度か話したことがあるが、たしか彼は幼いころから、神様の存在が自然にすり込まれていて、メダカが水槽の中を泳ぐように、当然のことと思っているということだった。
第一、二章では寺離れが進む背景として、戒名料のこと、お葬式のやり方などについて書かれている。第三章では、歴史を遡り、日本仏教の特殊性や庶民とお寺の関係について書かれている。江戸時代の始め、切支丹対策として、幕府は仏教各宗派を取り込んで、本山大僧正の任命権を握り、本山末寺のピラミッド体系を確立して、全ての家を檀家として登録させ、庶民をお寺さんに縛りつける「寺請」の制度が確立されたこと。それと引き替えに寺院経営基盤を保証することで、いわばお寺は幕府統治機構の一部として位置づけられたことになる。
大乗仏教の極致ともいうべき、死んだ人にお経を上げ、戒名を授けて、これで成仏したととする日本独特の現在の葬式仏教が確立されたと言っていいのではないか。
元々、戒名は生前に授けられて仏弟子になる、ものであるのに、機械的に誰でも戒名を付けて、それであの世に行ける資格を得るといったものではないとも書かれている。
正直なところ、評者は戒名にはあまり興味がない。というのも、身近な人たちの戒名はある程度意識はしていても、仏壇で手を合わすときにわざわざそれぞれの戒名で語り掛けることはない。同様に、戒名を記した立派なお位牌も、象徴というだけで、それ以上のものではない。
故人をうまく表現した戒名ならいざ知らず、適当に付けられたものであれば、さほど値打ちのあるものではない。自分で適当に戒名つくっていいよとなってもそう簡単ではないのに、自分のことをよく知らないお寺さんがいい戒名が付けられるかはおぼつかない。
明治に入り、「廃仏棄釈」、「神仏分離」の政策がとられ、徳川三百年の慣習も吹き飛ばすような改革が進められ、お寺の経済基盤にも大打撃を与えたことが指摘されている。とくに地租改正による寺領の没収は、お寺の経済的基盤を非常に弱体化した。
とはいえ、簡単には長年の慣習を変えることができず、新政府も政策を変更せずにはおられず、明治5年に神祇局は廃止された。
一方で、お墓や戒名に対する規制も緩和されたため、お寺の経営上の必要性から、現在のような状況を生み出したと考えられている。庶民の側から見れば、世間体を重視して、高い戒名料を払い、立派なお墓をつくろうということになる訳である。
しかし、この廃仏毀釈の経済面での影響の他に、僧に対して「肉食妻帯の自由」を与えたことが、日本仏教への影響としてはより大きかったのではないかと思われる。お寺さん自体が「戒律」の重要な部分を守らなくてよくなり、お寺も世襲制になり、僧の質的低下が起こったのではなかろうか。
村井さんは、しかし結論的に葬式仏教に特化したお寺さんはこれからも存続し、戒名も残っていくであろうとされている。
しかし、それからすでに10年以上経過して、徐々にお寺離れが加速しつつあるのではないかと評者は感じるが、どうであろうか。
日常、先祖に感謝し、心を落ち着かせる場所として、仏壇はあったほうがいいと思う。また神棚もあったほうがいいだろう。これも育った家のやり方によるのは当然である。
お墓の場合は、だれでもお参りができるので、仏壇や納骨堂とはとは違った意味がある。
しかしこれについても、多くの人が親元を遠く離れて生活するようになり、また少子化で、子孫がつながりにくくなっており、お墓の維持も現実的に難しい状況になっているといえる。独身の人、結婚しても子どもに恵まれない家族、男系の内孫がいない家もざらに多くなり、彼らにとってはまさに遺伝子の近縁性、たまたまこの時点に地球上に共存している存在として、気持ちを寛く持ちたいものである。
以下は評者の今の心情です。
そもそも、死ぬまでに「何をこの世、後世に残したいか」ということが大事な思いではないだろうか。後世に引き継がれるものとして、一冊でもいいので、自分で渾身の著作を残すとか、アーティストであれば、一曲でもいいから名曲を残すとか、一枚の名画を残すことができる人は幸せである。
そんな風に考えるのは、仏教でいう煩悩のもと三毒「貪瞋痴」の「貪」すなわち、捨てなければならない拘りの心・執着心ということになろうか。
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