「世代間の対話~倫理について」第5回「科学技術の倫理について」の報告です。
2012年12月16日
今回は、山口大学 大学教育センター教授の川崎勝先生をお招きしてお話を伺いました。テーマは「科学技術における倫理について」でした。以下お話の概要です。
倫理と科学は共存できるか、もともと水と油のような対極的なものではないか。倫理は人の行動のあり方、規範といったもので、科学は自然現象・自然法則の解明で前者は文系、後者は理系。倫理は儒教や道教、アリストテレスなど古くからあるが、科学の歴史は比較的新しく19C以降爆発的成長を遂げ、力を持ち出したのは19Cである。科学者といえばガリレオとかニュートンを思い浮かべるが、科学者Scientistという言葉は1830年代のことである。日本に黒船がやってきた頃とそう違わない。それまではむしろ自然哲学者とか博物学者という範疇であった。物理学、科学、生物学ともしっかり基盤ができてきたのは19C半ば頃からであり、高度化するにつれて徐々に、科学の専門細分化が起きてくる。20C後半とくに1980年代以降、生命倫理、環境倫理、情報倫理などの議論が活発になり、最近はこれらをひっくるめて科学技術倫理が議論されるようになっている。
科学者養成システムの制度化がドイツやフランスで、19C前半に行われる。それまでの学部は「法曹」、「医師」、「聖職者」を養成する「法学部」、「医学部」、「神学部」の三つだけだった。キリスト教の中での位置づけとして、他者を救うのが使命だったが、「科学者」は直接的には他者を救わない。科学者の使命は、人間の自然に関する知識の総体に「Something new新しい何か」を付け加えることであるとされる。「何か」が「新しい」かどうかを判定できるのは、同じ専門分野の仲間だけである。外部からは評価できない。
知識の総体が巨大化してくると、科学の知識全体を理解することは、人間の限られた能力・容量によって、不可能であり、いわゆる専門バカが生み出されることになる。
パラダイムという言葉は、思考の枠組みといった意味で理解されていることが多いが、
もともと、専門分野を同じくする科学者集団の間で共有されているものという意味であり、逆に科学者集団とはパラダイムを共有するものといえる。パラダイムは専門家になる過程の訓練において習得されるものとも言える。素人との間に差異が存在しなければ専門家とは言えない。
科学は、人間の感覚的・主観的要素を積極的に切り捨て、複雑な自然を極度に単純化(モデル化)することによって、客観性、普遍性、一般性を獲得して発展した。科学が、人間の価値判断(倫理)とは対極的なところにある所以か。
専門家は他の学問分野や社会への関心を欠落させ、自らの狭い専門分野だけに閉じこもる。激しい競争野中で、「何のための科学か」、「誰のための科学か」ということも考えない。一方素人(一般市民)の方もむしろ自発的に、自分は科学とは関係ないと思いこむ。専門家と素人の間の関係は「異文化コミュニケーション」であるが、一般に専門家による「正しさ」が独占されてきた。科学技術の力、影響が大きくなっているにもかかわらず、社会がうまくコントロールする仕組みがないという状況ではないか。
生命倫理の問題は、専門家は医師、素人は患者であり、やや特殊性がある。また健康の回復という目的は共通しいるように思えるが、完全には一致していない。臓器移植にまつわる脳死判定の問題は、随分社会的関心を集めたが、結局は専門家集団によって決められたことになる。より生きる人の命を優先するということか。
科学技術倫理の問題はこれから益々重要になってくる。難しい問題であるが、本質的な出発点のレベルから、社会全体として、しっかり議論し、共通了解をつくっていくことが重要である。
質疑では
○出生前診断では難しい選択を迫られる場合がある。
→科学技術自体では価値判断できない。一人っ子政策で男子の割合が多くなったり、少子化で障害児を排除するなど過ぎないようにする必要がある。
○人工呼吸器をつけるかどうかの判断を家族に求められるときに、難しい選択を迫られる場合がある。技術の発展は進めるべきだが、その使い方についてはよく考えられていないのではないか。
→本人に意識があるときは、その意志を尊重することになると思う。最近は医療のあり方もQOLを考えて、変化してきている。
15才以下の臓器提供については家族の同意があればできることになったが、あまり大きく報道されなかった。原則的に個別対応になるが、日本は同調社会であるので、周囲の圧力が大きくなることもある。
○医療の発達によって高齢化社会になった。医療産業にも期待されている。一方、モラルハザードもでてきている。
→医療費の半分以上は後期高齢者医療であり、社会的にも考えていかなければならないことである。科学技術の発達によって、豊かになったことは確かだが、科学技術と倫理(社会問題)バランスをとることが大事である。
○異文化コミュニケーションが大事だと思うが、うまくいくのだろうか。教育も大事ではないか。
→コミュニケーションの専門家の養成も必要だろう。教育において理系、文系と分けすぎることもある。
○専門細分化がますますひどくなるということはよく理解できる。医師教育にしても、どんどん習得すべき知識が増えて、あまり社会的なことを考える余裕がなくなるのではないか。
→専門化もそうだし、教育研究以外でも、やらなければならない雑用も多くなっており、論文業績も上げなくてはならず、余裕がないのは確かだ。成功するためには、専門分野で認められなければならない。
○その業績は個人的な成果であって、社会的な成果は別ではないか。
→研究費がないと、研究業績が上がらない。社会的な影響の部分を、行政が適切に判断できるような仕組みを考える必要があるのではないか。
○原発問題をどう考えたらいいかというのが、いま重要である。一昔前は、核技術を戦争に使うのはよくないが、平和利用はよいということが、議論された。
→逆に、平和利用を推進する方向に舵をとる政治判断が働いたこともある。70年代80年代にも軌道修正の機会もあったが、軌道修正ができなかった。百万kwの原発1基で、広島原爆分の核廃棄物が出ると言われる。国内の南北問題もある。
専門家を集めて、審議会で意見をまとめる、現在の仕組みは不十分で、全般に、これだけ影響力の大きくなった科学技術の使い方を適切に判断する仕組みができていないことが問題だと思うといったようなお話でした。
Ustreamは http://kankyo-salon.jpn.org/sadaikan-2.html
次回本シリーズ第6回「生命倫理について」1月19日(土)19:00から、山口県立大学江里健輔先生のお話です。
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