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HUさんの教育視座―3- 子供の身体障害と親子の苦しみの救済

2016年05月01日

 うべ環境コミュニティーの活動の主な観点は、環境保全活動、子どもの健全な育成、社会教育の推進、まちづくりの推進、農山漁村又は中山間地域の振興などです。子ども達の健全な育成は、安定した心の環境を整えるうえで、大事なことであると考えています。前回のブログでは子供の発育のためには、お母さんが地域コミュニティーの子育てプログラムをうまく利用して、核家族の中に孤立しないことが大切であることを述べました。でも、親も子供も、何も悪いことをしていないのに、病気や事故で体に障害を負うことも少なくありません。このような状態になると、親子は大変なストレスを受けて、長い苦しみの生活を続けることになります。このような苦しみから救済されるための一つの観点として、私の体験から得た教えを述べたいと思います。

子供が身体に障害を受けて、治癒後も身体障害者になると、本人も辛い運命を背負うとともに、親も子供をサポートして生きていくうえで、過酷な日々を過ごすようになります。私は子供の時に下肢の病気になって、10歳の時に股関節の機能全廃で身体障害者になりました。その後10年余り下肢の補助具を装着したり、杖を突いたりの生活が続きました。そのため両親も大変苦労をして私を育ててくれましたが、私自身の心の葛藤は尋常のレベルではなかったと思います。現在のような心理的なカウンセラーの助けが得られるような時代ではなかったので、親子とも、自身で心の病を克服するより手段の無い時代でした。
 関節の手術後の体力が回復すると、退院して自宅療養になります。体力的には平穏に回復期を迎えていましたが、私の心は段々と病気の圧力に抑えつけられてきたようでした。小学校5年生の頃には、いわゆる金縛り状態になり、特に何時も同じ幽霊が出てくると、夢の中の恐怖でどうしようもなく、最後に叫び声をあげて目を覚ますまで苦しみました。

約30年後に、インドネシアのバリ島に滞在した折に、観光地でバロンと言う聖獣を見ましたが、姿と大きさは全く夢の中の幽霊と同じでした。ただし、夢の中の幽霊の顔は、日本の男性の怖い顔でした。この幽霊が何時も決まって、家の廊下のトイレ側から現れて、部屋に入ってくると布団の上から覆いかぶさってきます。だんだん、エスカレートしてくると、目が覚めても半分うなされたようになって両親も心配そうに見ているのが分かりました。このような状態が、小学4年生の時から約4年間続きましたが、中学1年の時に、たまたま妹の少女雑誌の漫画を読む機会がありました。漫画のタイトルは、「赤いカンナの花咲けば」で、母と別れた少女が苦労する物語だったと記憶しています。この漫画の最終回を読んだ後で見た夢の中で「私の幽霊の物語もこれで終わった。赤いカンナが咲いて、恐怖の幽霊は二度と出てこない」と確信することができました。なぜそのような気持ちになったのか良く分かりませんが、心と体の発達に伴って、自分の中で幽霊の恐怖を克服することが出来たのだと思います。
 その後は、あの恐ろしい幽霊はピタッと夢に現れなくなりました。もっとも幽霊は出なくても何かの異様なものが夢の中で迫って来て金縛りになり、それと格闘して目が覚めることは何度もありました。このような金縛りも徐々に回数が減り、現在は疲労などで体調がすぐれない時に現れることもありますが、夢の中でそれを克服することができるようになりました。夢の恐怖から解放されても、身体的なコンプレックスはどうしようもなく、青年期になって自分の人格形成をしっかりと自覚するまで気持ちの整理がつきませんでした。
 青年期に、カミュの「異邦人」を読んだことがありました。世の中には不条理ということが沢山存在して、人は生きていくうえで不条理を克服しなければならないと覚悟したのもこの時期でした。

 子ども達は、基本的に平等だと言う大前提で教育が進められていると思うのですが、個々の子どもの状態は全く平等というわけではありません。身体的な障害のある子ども、その子供の持っている学習能力の優劣など、どうしても平等ということはあり得ません。自分の努力不足に原因があるのではなく、どうしようもなく、条理に合わない運命を背負わされる子ども達がいて、その子供の辛さと苦しみを見守る親がいるのです。これを不条理と呼びますが、子どもは不条理をどう克服するのでしょう。
 病気の苦しみから回復し、心理的な安定状態に落ち着いたとしても、子ども自身が不条理だと感じていることを、克服して生きていく力を得るためには、青年期になるまで人格形成の努力を続けていくより方法がないと考えます。一人一人の置かれた状況は不平等で、それでも生きていかなければならないことを、どう折り合いをつけて心の安定と希望を持っていくかは、その人の強い意志にかかっているのです。身体に障害のない子供でも、学校の成績やいろいろな能力は平等ではなく、コンプレックスに陥ったり、落ちこぼれになったりするケースが多くあります。自分の欲する状態に持っていけないことで不満を募らせ、周囲に迷惑をかけるような行動に走ることもよくあります。人間は全く平等ではないし、自分の責任の有る無しに関わらず臨む状態とはかけ離れた生活を強いられることがあることを認めることが第一であると思います。その上で、このような不条理の状態を、たゆまなく人格を形成する努力を続けることで克服し、心の平安と強く生きていく力を得ることが、すべてに人にとって大事なことであると考えています。

 私が大学の学生担当副学長に就任した当時(平成19年春)の出来事をお話ししましょう。平成15年に神戸商船大学は神戸大学に統合され、神戸大学海事科学部になりました。当時、神戸商船大学は白鴎寮(はくおうりょう)と言う立派な学生寮を持っていて、統合後は神戸大学の全学部の学生が入寮できることになりました。ところが、白鴎寮には旧神戸商船大学の伝統があり、寮生は早朝、港まで駆け足で行って、救命胴衣を着けたうえで漕艇訓練を行うことが続けられていました。平成17年度の入学した海事科学部でない女子学生が白鴎寮に入寮して、この漕艇訓練に駆り出されました。体力的に自信のなかった女子学生は精神的にダメージを受けて、休学し自宅に帰ってしまいました。平成18年度には両親が大学にクレームを申し出て、学生部長から新任の私に状況説明と、裁判沙汰になるかもしれない状況であるとの報告がありました。寮の伝統を重視して、他学部の入寮生に対しても漕艇訓練を課したことが問題の発端で会って、当該の女子学生はこのことを不条理だと感じるとともに、精神的な抑圧を受けたことを回りに訴えたわけです。
 私は海事科学部ならびに白鴎寮に対して、他学部からの入寮生に対しては承諾を取ったうえで、漕艇訓練に参加させるように指導しました。また、当該の女子学生の家庭に、担当の学生生活課長と一緒に訪問してお詫びと今後の対応を相談させていただきました。ご両親も大変ご立腹されていて、厳しい状況でした。私は、人生における不条理とその克服について、自分が悪夢を克服した体験を話し、時間はかかるかもしれないが、あなたが心に感じている不条理を克服できる時が来ると信じていると言いました。その結果、本人とご家族も納得されて矛先を収めることになりました。その後、この女子学生は他大学に編入されて、元気に大学に通うようになったとお聞きしています。

 私が山口大学工学部の助教授を務めていたころ、指先の切り傷で上宇部外科に通っていた時がありました。ある日、私の前の診察を廊下の待合で待っていて、医師の話声が聞こえてきました。お母さんと小学生低学年の男の子が診察室に入っていて、医師から病名を告げられていました。病名が私の幼い時に患った病気と同じだったので、耳に入ったのですが、その瞬間に待合で会計を待っている間にお母さんに「私も同じ病気で苦労したけれど、30年後にはこのように元気になっているから、気を落とさないで頑張ってください」と励まし、その男の子にも「元気でね」と声を掛けてあげようかと迷いました。私が怪我の手当てを受けて、待合室に出てくるまでに、もう一つ違う観点で考えたことは、私は説明すれば大学の助教授として元気で頑張っているけれど、初対面のお母さんから私を見ると、下肢が不自由な障害者としての印象が強く、かえってお母さんの気持ちを傷つけ、子供の将来を暗い面で見てしますのではないかと危惧したことです。病気の子供を持つお母さんは、わが子が完治して障害もなく元気になることを何よりも願っており、闘病でいろいろと苦労を重ねて我が子の運命を受け入れられるようになった後は、同じ境遇の人の話を自然な形で受け入れられると思いますが、病名を告知された直後は我が子が将来、どのような障害を負うことになるかを受け入れ難いと思われます。
 上記のような点をとっさに判断して、私は母子の今後の闘病生活を気遣いながらも、心の中でエールを送るにとどめて、敢えて話しかけることをしませんでした。我が身を振り返って、このような状況を哀しく思ったのですが、障害者自身の哀しみと苦しみは、健常者にはなかなか理解できないことかもしれません。障害者の介護や教育に当たっておられる方々は大変なご苦労だと思います。このようなご苦労を一般の人たちと分担共有して、協力の輪を広げてゆくためには、障害者の領域と健常者の領域の接点をどのようにして、うまくつなげるのか、そのノウハウの情報を機会がある毎に広めていく必要があると思います。

身体障害者からの観点を、もう一つ述べます。私は、小学校低学年から中学、高校と体育の時間は見学者として過ごしました。当時は身体障害者に対して特段の配慮もなく、体育の時間は行程の片隅で見学していて、私自身は何の疑問も持たずに過ごしました。京都大学に入学後、教養部の体育の時間は病気で体育の授業を受けられない学生の数も多かったので、見学者の特別クラスが編成されました。京都大学保健診療所長の宮田教授の下に見学組が10名ほど集まり、宮田先生が出された課題について意見交換を行うことになりました。工学部の体育の時間は、約半数の500人程度が一度に授業を行うので、見学者も10人程度になる訳です。身体障害者は3人ほどで、他は腎臓とか心臓とか内臓疾患の学生たちでした。宮田先生は次週の話題内容を予め発表しておいて、見学時間はいわゆるディベート形式で学生たちに意見を闘わせるようにしました。高校までは人前で自分の意見を主張する機会が無かった私にとって、たいへん刺激的な時間でした。文学部の学生で、自動車に下半身を轢かれて腰部が不自由な学生がいて、お互いに理解しあう仲間になりました。彼も後年、博士課程に進学して、時々キャンパス内で出会って声を掛け合いましたが、何時しか連絡が途絶えました。2回生の体育の時間は、理学部地球物理学教室の高木教授が担当されました。高木先生は「君たちは出来る範囲の運動をするべきだ」と言われて、京大キャンパスの中を散策し、時には近衛通りの洛友会館のレストランに連れて行って、苺ミルクを御馳走してくれたりしました。散策の合間には宮田先生の時よりも砕けたディベートをして時間を過ごしました。なぜ理学部の高木先生が見学組の世話をするようになったのかは分かりませんでしたが、きっと先生のお人柄を見込んで保健診療所の方から依頼したものと思います。障害者の生徒たちが、見学の時間を有意義に過ごせるように、小学校や中学校も先生方にも配慮をお願いしたいものです。(HU)

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